Islamabad(イスラマバード3日目)
         〜
ガンダーラのロマンと首都の威厳を胸に秘める日

今日も、朝からお腹の方は相変わらずゆるいままであった。
痛みや苦しさはなくなってはいるものの、四六時中お腹の中がコロコロいっている。
まるで腹ん中でハムスターでも飼ってるような気分だなぁ…。
♪とーっとこー 走るよ○ムたろ〜 すみっこー 走るよハ○たろ〜♪ …。

だけど、朝はちゃんと起きて、朝食もみんなと一緒に食べた。
あ〜、あとはお腹だけなのに。ハムちゃんず、お願い、どっか行ってくれぇ〜。

今日は先生もお疲れのようだったので、午前中の観光は先輩に案内してもらうことに。
一昨日の夕食のときにもご一緒した、パキスタンでお仕事をしているNt先輩。

Ntさんは前の年に同じ授業を履修してました。
8/24のタイ・ドンムァン空港で出会ったNz先輩の前に、在パ日本大使館に勤務してた先輩です。
そして卒業後、Ntさんはパキスタンでまさにパキスタン人の如くお仕事をされているのだとか。
いやぁ、スゴイっす。さすがNtさん。


そんなパキスターニージャパーニー・Ntさんの案内で向かったのは、ガンダーラ遺跡タキシラ。
ペシャーワル滞在中に行けなかったガンダーラ遺跡
タフティ・バーイの屈辱をはらすべく!

タキシラは、イスラマバードから約35km、車で30分ほどの距離にある。
いつものバスに乗って、タキシラ方面へと向かう。


バスが走っていくにつれて、整然とした緑いっぱいのイスラマの街はどんどん見えなくなり、
次第に土と石がむき出しになったはげ山の谷間に差し掛かってきた。

ごつごつ岩がむき出し

ここはマルガラ峠。
昨日行ったシャー・ファイサル・マスジッドの後ろに見えていた丘を越えたところだ。
かつては中央アジアとインドの境界となっていた場所である。

そして、峠を少し行ったところには、石畳の道があった。

一見普通の石畳街道なんだけど

旧GTロード(グランド・トランク・ロード)といって、16世紀の初めに作られたもの。
これは、その残っているものの一部である。

16世紀の初頭といえば、北インドにムガル帝国が樹立してまもないころですな。
(ここで、ムガル帝国のおさらいを
クリック!)


デリーを首都にムガル帝国を建国したのは、バーブルという人。
中央アジアのティムール朝の血族です。
帝国樹立当時は反対勢力が根強く、バーブルは戦いに明け暮れて、あまり国に帰ることはなかったそうな
(まーバーブルさんは中央アジア出身ってこともあって、本当はそっちの方で国をつくりたかったらしい。
 だから、インドに帰ってこれなくても、何てことはなかったんだろうけど)。

しかし、アグラで息子のフマーユーンが病に倒れたときは、帰ってきて回復を懸命に祈ったという。
フマーユーン回復後、まるで息子の病を吸い取ったかのように、今度はバーブルが病気に。
そのまま帰らぬ人となったのである。

そして、息子のフマーユーンはムガル王朝第2代皇帝に。
亡きお父さんの頑張りにもかかわらず、依然北インドには反対勢力が多数存在していた。
その中の一つが、シェール・シャー率いるアフガン系スール族一団。
シェール・シャーはフマーユーンを打ち破り、北インドにスール朝を打ち立てる。
フマーユーンは隣国イランに亡命し、ムガル帝国は一時断絶してしまう。


このGTロードは、そのシェール・シャーが建造させたものである
(え?前置きが長すぎるって?)。
当時は「王の道」と呼ばれていただけのことはあって、
カーブル、ペシャーワル、ラホール、デリー、カルカッタを繋いでいた。


さて、その後のスール朝はというと、シェール・シャーは戦時中に亡くなり、国は混乱状態に。
その隙をついて、フマーユーンは見事にデリーを奪回。
北インドには再びムガル帝国が支配することと相成りました。

なのに、なのに、フマーユーンは何とも間抜けなことに、
宮殿の階段から落っこちてあっけなく息を引き取りましたとさ。

その代わりに即位したのが、御歳わずか13歳のアクバルくん。
後にムガル帝国黄金時代を築き上げることになる第3代皇帝、アクバル大帝です。


とまぁ、歴史のおさらいはこんなもんにしておきましょう。

旧GTロードのところで一旦休憩をしていると、
そこで、な、な、なんと!念願のパキスタン・デコトラと遭遇!!
今度は間近だ!






 この派手派手しい極彩色に色づけられた装飾品の数々、

 何かブリキっぽい感じのものでできてるみたい。

 走るとしゃらんしゃらん鳴ってるし、

 よく見たら、ちょうちょとかハトとかいたりするし。

 日本のデコトラとは一風違いますなぁ。





そんなこんなで、タキシラに到着。

最初に行ったのは、タキシラ博物館。
ここでは、仏様の彫刻や石器、仏像、硬貨、装飾品などなど、
タキシラ一帯で出土したガンダーラ美術品がたくさん収められ、展示してある。

あいにくながら、写真がなくて申し訳ないんですけど…。

紀元前に作られた仏像や彫刻を見ると、かなり細かく丁寧に彫られていて、
当時としては相当の技術をもって作られたのだろうと思われる。
そして、おもしろいのが、お釈迦様の顔が何となくギリシア人風なこと。
ミロのヴィーナスみたいな顔の仏像です。


ガンダーラと呼ばれたこの地域は、東西文明の十字路ともいえる重要な場所。
インド文明とギリシャ・ローマのオリエント文明の融合地点でした。
この辺は、
28日にも書いてますよね。

ガンダーラの歴史は古く、紀元前にまでさかのぼり、
紀元前14〜前11世紀に成立したといわれるインド最古の古典「リグ・ヴェーダ」に
すでにガンダーラの記述があるという。

前6世紀には、北インド16大国として名を連ね、アケメネス朝ペルシアの支配下に置かれていた。
そして前4世紀、アケメネス朝ペルシアを破ったアレクサンドロス大王がこのガンダーラ地方に遠征。
西方の人々がこの地にやってくることとなる。

その頃、北インド一帯はインド最古の統一王国、マウリヤ朝が確立。
このとき、タキシラもマウリヤ朝の一州として編入される。
マウリヤ朝最盛期を支配した第3代アショーカ王は敬虔な仏教徒で、仏教を擁護。
ガンダーラ一帯にも仏教文化・学問が入り込んだ。

前3世紀、バクトリア王国の侵攻により、バクトリア人(ギリシア人)が進入。
200年あまりのバクトリア支配後、中央アジアの大月氏国が建国し、
前1世紀、その一派であったクシャン族によって、クシャーナ朝がひらかれた。

クシャーナ朝は、ガンダーラ地方最大の繁栄をもたらす。
2世紀、第3代カニシカ王は仏教に熱心で、仏教文化の花開いた時期でもあった。
ギリシア系勢力は吸収したものの、ギリシア人は依然この地に残っていたため、
オリエントの影響は強く残り、インド文化とオリエント文化の融合が進んだ。

すなわち、インドの仏教+ヘレニズム様式=ガンダーラ美術の誕生である。

ギリシア風のお釈迦さん

仏教史上初の仏像が作られたり、多くの寺院や彫刻も残された。

また、ガンダーラ美術は中国に入り、遠い極東の日本にまで伝わり、大きな影響を与えたのである。
これは有名。この頃の日本というと、奈良・飛鳥時代だから、
聖徳太子ゆかりの
法隆寺正倉院などに飾られている仏像や彫刻もガンダーラ美術ですね
(法隆寺については、展示物を紹介している素晴らしいサイトがありました→
コチラ)。


という感じで、ガンダーラの歴史のロマンを感じながら博物館を後にした。
さぁ、今度は実際にタキシラに行ってみましょう。

博物館の前に待っていたのは、お馬さんの群れ。

乗せてってね 馬方のおっちゃん

これは、タンガーという馬車で、リクシャーと並んでパキスタン庶民の足となっている。
都会ではリクシャー、田舎ではタンガー。
ここタキシラではタンガーが観光名物の一つらしい。
Ntさん、ステキな演出ですわ〜。

どんなものかとビクビクしながら、後ろの車に乗り込んだが、なかなか快適♪
もっとゆっくりゆっくりなのかと思っていたら、思っていたよりも速い。
パッカパッカとお馬さんがジャリジャリ砂を踏みつけながら、
のどかな田舎の風景を横目に、通り過ぎて進んでいくのは、
なかなか風情があって趣き深いものですなぁ。


タキシラには見所がいっぱいあって、全部見ようと思ったら2日はかかる。
主な遺跡は、博物館に近いところだとビール・マウンド、ダルマラージカ、シルカップ、ジャンディアール、
少し離れたところへいくと、シルスフ、モーラ・モラドゥ、ピプラン、ジョーリアン。
みんなの体力も万全ではないし、こんなにはまわれないので、今日は一箇所だけ。


その一箇所が、シルカップ。

博物館からタンガーで10分弱くらいの近距離にあり、タキシラの入り口付近にある遺跡。
前2世紀ごろに、バクトリア支配下でギリシア人が建設した都市だ。
紀元2世紀のクシャーナ朝の頃まで存続した。

水色のシャルカミはNtさん(笑) 家の土台
一瞬何かわからんけど
 上左:南北に伸びるシルカップのメインストリート。
     奥に見えているなだらかな山はハティヤール山。

 上右:家の土台の遺跡。石のレンガを積み上げて作られている。
     他にも多数あったが、どれもかなりしっかりした形で残っている。

  メインストリート沿いには、多くの家やお店が並んでいたと思われる。
  これだけキレイに並んでいるのを見ると、
  かなり発展した大都市だったに違いない。
  しかも、それが何千年も前の話なんだから。
  ここでご近所さんとのおしゃべりや買い物をしたりして、
  何千年も前の人々は、毎日を過ごしていたのかなぁ。


 下左:日時計の遺跡。おっちゃんが立っているところが時計の中心。

  しかも、この時代に日時計まで発明されていたという。
  日本で初めて時計が発明されたとされるのが、西暦671年。
  日本書紀によると、天智天皇の作った漏刻(ろうこく)という水時計が起源。
  しかし、このシルカップは紀元前後ぐらいの遺跡だから、
  日本より600年ほど前に時計が発明されていた、ということになる。



よく見たら鷲がいるよ ジャイナ教まで

左:双頭の鷲のストゥーパ。これはなかなかの代物で、東西文化の融合がバッチリ見られる。

  まず、ストゥーパとは、仏さんの遺骨を収めた墓です。日本では卒塔婆とも言われます。
  写真ではよくわからんかもしれませんが、3つ並んだお社みたいなのがありますね。
  この社っぽいのが、チャイティア・アーチというもの。
  楕円形のアーチ門に三角屋根を乗せた寺院の屋根って感じでしょうか。
  この辺が、インドの仏教からの影響。

  次に、そのお社の上に、これまたよく見えないと思いますが、鷲が鎮座しとるんです。
  しかも頭が前と右に二つある。この双頭の鷲というのは、西アジア地方が起源らしい。
  ということで、この双頭の鷲はイランからの影響。

  そしてこのストゥーパの建築様式は、ギリシア古典建築のコリント式。
  お社の脇に建つ柱の頭の部分に、葉っぱが巻きついたような豪華な様式。
  ここが、ギリシアからの影響。

  そう。これはインド・イラン・ギリシアの3文化が融合した、夢のような遺跡なのだ。
  かなり貴重な豪華競演。
  まさに、ここシルカップは東西文化の交差点という感じですな。


右:ジャイナ教のストゥーパ。メインストリートの奥の方にある。

  ジャイナ教とは、不殺生などの苦行・禁欲主義で有名なインドの少数派宗教。
  蟻の一匹も殺してはなりません。なので、ほうきで道を掃きながら歩いたりします。
  そういうジャイナ教のストゥーパが残されています。
  このストゥーパの建築様式はペルシア様式で、支柱が残っています。


通りの脇にある石台に立って、シルカップの遺跡を眺めてみた。
大昔に栄え、人が住んでいた場所に、今、私が立っているんだ、と思うと、
言葉では言い表せない感動がムクムク溢れてきた。

…すごいなぁ。

空気だけは、遥か古代の風が吹いているように感じられて、
何だか妙に胸の奥が熱くなった。

…いや、熱いのは胸だけじゃなくて、皮膚もだった!
シルカップは、何せ暑いっっ!!
木陰に立っていれば、心地よい風がそよいでくるのだけれど、
影のないところにいたら、強烈な日光にさらされて、汗が止まらん。
ドゥーパッタを被っていても蒸れて暑いし、どうしたらいいんだぁー(>_<)


今日は時間もあまりなく、また皆の体力的なことも考えると、
奥の方には行かないほうが良さそうだった。残念。
今度来たときは、何日かけてもいいから全部見て回りたい!

シルカップを出ると、太鼓を持って歌うおっちゃんがいた。

金くれ〜

なかなかイイ歌声だったのだが、歌が終わると金をせびり始めた。
何だよ、金かよ…。
鬱陶しいので無視して、目の前に来てくれていたバスの方へと向かった。
バスのおっちゃんさっすがやわ。疲れた私たちを迎えに来てくれるなんて☆
というわけで、早速帰途へつくことに。

バスが大使館員Ngさん宅へと向かう途中、
急にバスが停車し、Ntさんは「じゃっ」と言って降りていった。
「え〜ここで帰るんですかぁ?!」みんなびっくり。
Ntさんはいともあっけなく去っていった。
それもまたかっこよし☆

…ん?!
うちら、博物館代とか全然払ってないんですけど!


Ntさん宅に到着し、タキシラに不参加だった先生が復活。
すっかり元気を取り戻されたようだった。
先生もバスに乗り込み、再出発。次は昼食だ。

イラスト…(どこかから拝借してきました…ゴメンナサイ)


 今日の昼食は、イスラマのホリデイ・インにて。

 ホリデイ・インといえば、
先日のラホールでも滞在していたホテル。

 パキスタンの中でもランクはかなりイイ方のホテルみたいだ。



この奥がレストラン
 レストランはビュッフェスタイル。
 これまた、おいしそうなカレーや肉料理、サラダ、デザートが山盛り。
 お腹の調子は相変わらず万全とは言えないけど、
 うまそうなものを目の前にすれば、そんなことは関係なし。
 あー、パキスタンに来たら体調を壊したりとかして
 体重が減るんじゃないか、なんて考えたりしていたが、
 それは、全くの見当違いであるということがこの時点で明確になった
 (え、今頃? 笑)


だが、今日の昼食はいつもと違っていた。
というのも、一緒に食事をしたのが、私たち外大ツアーの一行に加え、
何と、ラホール大学の総長さん、パキスタン首相補佐官の方々も一緒であったのだ。
特に何を話すということはなかったのだが、かなり緊張した。

しかも、先生は雑誌の取材まで受けておられました。
もしかしたら、私は今ものすごい方々と食事の席をご一緒しているのかもしれない
(いや、かもじゃなくて本当に)と思うと、普段猫背ぎみの私も思わず背筋が伸びた。

最後に、みんなで一緒に写真を撮った。
そして、総長さん、補佐官の皆さんとお別れをし、
私たちはレストランを後にした。


次は、イスラマバードらしい場所を訪れることに。
イスラマといえば、パキスタンの首都。
ということは、つまり、政治関連の建物などもここイスラマバードにあるということ。

大使館や大統領官邸、国会議事堂、最高裁判所などなど、
かなり近代的でキレイな建物が並んでいた。

行政府 首相府

いわくつき(?!)最高裁


それから、次は買い物。
昨日もジンナー・マーケットで買い物したが、まだまだ買い足りない。
というわけで、みんな張り切っていた。

が…。

日曜日ってお店閉まってるんですね…。


かなりの割合でお店が定休日になっていた。がーん。

お目当てだったお店が閉まってる、という子もいたので、
開いているお店へ買い物に行く派と、バスに残る派に分かれて行動。
私は買い物に行く派についていった。

だけど、私もやっぱり欲しいものはなかったので、
先にバスに戻ってきた。

そしたら、みんながアイスを食べているではないか!
え〜!イイなぁ〜!

暑いバスの中で待っているみんなのために、
運転手のおっちゃんがアイスを買ってきてくれたのだという。
しかも、あとで戻ってきた私やみんなのためにも
わざわざ買いに行ってくれたのだぁ〜。
うわーん、おっちゃんイイ人だよぉ〜(泣)。


今朝、Ntさん宅に迎えに来てくれたとき、みんなおっちゃんを見て叫んだ。
「わぁ〜!丸坊主になってる!」
そうなのだ。今日おっちゃんは丸坊主になって私たちの前に現れたのだった。

最初こそ、いかついアラブ系ビン・ラディン風の風貌にみんなビビったものだが、
日を追うごとに、私たちに対するおっちゃんの心遣いや優しさを感じ、
おっちゃんに対して親しみを感じるようになっていた。

おっちゃんには高校3年生の娘さんがいるらしい。
学年でトップクラスの成績だそうで、自慢の娘なんだって。
そんな話をしてくれたときのおっちゃんは、いつもよりも目尻が下がって、
とっても嬉しそうな顔をしていたなぁ。

おっちゃんは私たちのこともそのコと同じような感覚で
お世話してくれているのかな。
ま、実の娘を思う気持ちには負けると思うけどねっ。


そして、本日最後の予定は、キシュワル・ナーヒードさんのお宅訪問。
キシュワルさんは、私たちととても縁の深い方で、
以前の日本訪問のときは、うちの大学にも来られてました。

今回は、まずキシュワルさんのお店を見せていただき、
次に、キシュワルさんのご自宅にお邪魔した。
キシュワルさんのおうちはとても広くて豪華。
素敵なインテリアがたくさん飾られていて、棚にはたくさんの食器が並んでいた。


キシュワルさんは、パキスタンの代表的な女流の現代詩人。
彼女の詩には、イスラム社会に対する批判や女性解放をテーマにしたものもあって、
かなり現代的な詩が多くある。

以前私が履修していた授業では、みんなでキシュワルさんの詩を翻訳し、
機関誌に掲載されたりもして、ちゃんと本になったのですよ。
あれは、私にとってとてもイイ経験になりました。

また、彼女は女性の経済的自立を助けるためのNGOで活動し、
職業訓練施設を設立して、代表も務めているのだ。

だからなのかわからないけれど、キシュワルさんは私たち女の子にとても親しげだ。
あ、いや、変な意味ではなくて(笑)、初対面でもまるでお母さんのように接してくれる。
「アンタ、がんばんなさいよ〜」という感じで、背中をバシっと叩く。
大きな口でガハハと笑い、いつもニコニコしている。

前の年に日本を訪問されたときの、講演会後の懇親会でも、
肝っ玉母ちゃんのような印象が強烈に残っている。
その豪傑な感じは相変わらずで、本当にホッとさせられるような雰囲気の人だ。

キシュワルさん宅では飲み物だけ少しいただいて、
早々にお宅を後にした。


さて、お待ちかねの夕食。
Ngさん、Iさん、Ntさん、Nzさん、そしてこれまた大使館員のMさんも合流。
今日はいつもにも増して、にぎやかな顔ぶれでの晩餐だ。

今晩の食事は「カーブル・レストラン」という、イスラマでも有名なアフガン料理のお店。


と、ここでアフガン料理って何?という話になりますね。
アフガン料理とパキスタン料理の違いって?
というか、そもそもパキスタン料理とインド料理も似たようなもんでは?
というわけで、違いを説明。

★インド料理
 …ヒンドゥー教徒の多い国ゆえ、神聖な存在である牛のお肉は使ってません。
 …どっちかというと、お豆や野菜を使っている料理が多い。

★パキスタン料理
 …イスラム教徒の多い国ゆえ、汚れた存在である豚のお肉は使ってません。
 …どっちかというと、肉料理が多い。羊や鶏がメイン。ヤギや牛もある。
 …お肉はハラールミート(アッラーの名を唱えて、決まったやり方で屠殺した肉)
  でないと食べてはいけない。
 …海に面しているところが少ないので、お魚を使った料理は珍しい
  (カラチに行けば、お魚料理があるようです)。

→その他、香辛料の使い方などが違っていたりもするらしいが、
 元々、両国は同じ国だったわけですから、基本的にはほとんど同じだと思います。

★アフガン料理
 …よくわからないけど、パキスタン料理の辛くないバージョンとのこと。
  香辛料も使っているみたいだけど、辛さはあまりない。


確かに言われるとおり、パキスタン料理と大して違いはないようだった。
ナンが主食っていうのも同じだし、パラパラな食感のゴハンもあった。
ゴハンは、カブリーというアフガン式のピラフみたいなゴハン。
ニンジンとレーズンで炒めた山盛りフライドライスの中に、羊のお肉が埋まっているのだ。

それから、長ーい串に刺さったカバーブ。肉汁たっぷり、めっちゃジューシーでうまかった☆

豪快に串刺し!!


食事を終えて、家に戻ってきた。

今日でイスラマバードは最後。明日はまたラホールに戻ることになっている。
そういうわけで、今晩がNgさん宅での最後の滞在となる。残念。
でも、こんな大人数で押しかけたというのに、NgさんIさんとも本当に良くしてくださって、
お二人のステキなお人柄をしみじみ感じました。

最後の晩ということで、記念写真大会が始まり、
クールなお二人にヘンテコリンなポーズをお願いしながら(笑)、
ワイワイ賑やかな夜は更けていきましたとさ。



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